花束を君に/韓国清州だより

2010年~韓国在住。夫(韓国人)と子ども3人(長女2010年生/次女2012年生/長男2014年生)私の母との6人暮らしin清州。

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韓国と私の最初の出会い

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韓国と私の最初の出会い(私が韓国を意識したきっかけ)

 

今回は、私の大好きな韓国人の友人について書きます。

 

「韓国と私の最初の出会い」あるいは、

「私が韓国を意識したきっかけ」について。

 

特に韓国に暮らす今、時折思い出しては、心の中で私を支えてくれる存在の彼女。

 

韓国を最初に意識したきっかけについて、

一度、自分の中でも整理しておきたいと思います。

 

ここ最近の更なる日韓関係の難しさ

あまり良い話題ではないですが、

ここ最近、またしても日韓の情勢が難しくなっているのを感じます。

 

元々、時期的に8月が近づくとどうしてもそうなりやすいですが、

そうではなくても、最近は経済的な内容その他も常に絡み、

1年中、微妙な感じの事が多い気がします。

 

結婚して韓国に来て以来、こういった時にはいつも微妙な気持ちになります。

 

いつも、「その報道された内容」のみを見ると分かりにくいですが、

 

その背景には

常に各国国内の政治的な事情が関係していて、しかもそれは国民主体ではなく政府中心によるものであり、

実際には日韓両方の国民は蚊帳の外にいるような気がします。

 

そしてここ数年、コロナ禍になってから特に

「日韓関係が特にここ数年悪化していると感じる」と色々なところで聞きます。

 

特に、ビザの問題や日韓の間でお仕事されている方々などが特に影響を受けて、

非常に苦労されているという話をTwitterでよく見る気がします。

 

 

大学3年生の時に初めて韓国へ(1997)

初めて韓国に行ったのは、私が大学3年生の時でした(1997)。 

 

当時は、私の所属していた長崎大学井川研究室で、韓国・昌原大学校との国際交流がまさに始まりかけた頃。

 

昌原大ー長崎大・韓日大学交流展への参加メンバーに選ばれ、その時に韓国へ初めて行きました。

 

当時、学生会会長として動いていた彼女

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その時に出会ったのが彼女です。

 

当時彼女は、昌原(チャンオン)大学校芸術学部東洋画ゼミに属していて、

学生会の会長として、交流展を裏で支えていました。

 

昌大では「4年生のみ参加」という決まりがあり、

当時3年だった彼女は交流展参加メンバーには加われなかったのですが、

裏方としてしっかりと動いていました。

 

その真面目さ、熱心さ。そして何より、

美術や制作への信念に惹かれたのを覚えています。

 

互いに言葉は全く出来なかったけれど、

私は何か非常に通じ合うものを感じました。

 

実は、その前の年(1996)に私は姉を亡くし、

まだ立ち直れないところがありながら、この展覧会に参加していました。

ura111cheongju.hatenablog.com

 

ura111cheongju.hatenablog.com

 

そこで出会った彼女。

その笑顔は、大好きだった姉の笑顔に非常に似ていました。

そういう部分もあり、より印象に残っていました。

 

翌年、彼女が長崎へ(1998)

その翌年、今度は長崎大が昌原大学校を招待する事となり、

長崎大ー昌原大・日韓交流展が行われました(1998)。

 

その時に今度は裏方でなかく、4年生の参加メンバーとしてやって来た彼女と

再会を果す事が出来ました。

 

残念ながら、その時には私が今度は4年生で裏方で動いており、

彼女とゆっくり過ごす事はあまり出来なかったのですが、

 

彼女はそれを理解してくれ、そういったところも、とても嬉しかったです。

 

ただそれでも、数少ない時間の中、

小浜での美術ワークショップで同じチームになったり、

また(1泊だけでしたが)うちの家にホームステイする機会があったりして、

より親しくなる事が出来ました。

 

1999年・2000年は韓国で再会

その後も、2年続けて会う事が出来ました。

 

<1999>

大学院生となっていた私は、韓国昌原大での国際交流展の為に

昌原大に行きました。

その時には既に大学を卒業し、OBとなっていた彼女が会いに来てくれて、

彼女の実家でお昼を頂きました。

 

この時に、彼女は絵画教室とお花屋さんを開いていました。

 

<2000>

この年には、私の指導教授・井川惺亮先生が韓国の大邸(新羅ギャラリー)で個展が開催される事となり、

 

その際に私も大邸に行きました。

 

その事を彼女に連絡していたので、

彼女はこの時にも、わざわざ昌原方面から見に来てくれました。

 

その時にギャラリーで再会し、

「韓国人男性と結婚し、彼についてアメリカに行くかもしれない」と聞いていました。

それで、今後はあまり会えなくなるかもしれないと。

 

実際、その後はメールもつながらなくなり、会えなくなったまま、今に至ります。

 

風の噂によると、どうやら数年前から韓国にはいるとの話なので、

 

今の私の状況を「韓国人男性と結婚し、あなたの国・韓国に来ていて子どもが3人いる」という事を是非とも伝えたいのですが、

 

連絡先が分からず、ずっと伝えられずにいます。。

 

最初の「韓国人」の友だち

実は、韓国人の方と会った、交流したという事で言えば、

彼女より前からその経験はありました。

 

大学に入学後、

絵画アトリエに入れば韓国人留学生の方がいて挨拶したり一緒に制作したりしていましたし、

 

大学2年生の夏には、慶北大学校との交流展が長崎で行われ、数日間、日韓の学生でチームを組んで一緒に過ごした事も印象に残っています。

 

ただ、言葉もほぼ通じないのに、それでも伝わるものがあり、惹かれる・通じ合うという人は、

 

それまであまりいませんでした。

 

「彼女がいる国」「彼女が生まれ育った国」というものがあり、

それから韓国が何か近い国のように感じ始めました。

 

その経験があったので、夫と再会しお付き合い、ひいては結婚も視野に入れた時にも、

「感覚に任せて良い」という確信のようなものを持つ事が出来ました。

 

彼女との出会いがあって、私は韓国を意識するようになり、

そして夫との結婚へもどこかで後押ししてくれたと思っています。

 

もしかしたら、話が通じないからこそ、どこかで美化して上手くいったところもあるかもしれません。

 

多少韓国語が話せるようになった今、仮に彼女と再会出来たとして、話が出来たら、私の中の何かは失われてしまうかもしれません。

 

それでも、 いつか、必ず会いたい。

彼女と今こそ再会したいです。